戦国時代の軍師・官兵衛に生涯にわたり愛され続けた女性
光姫さまは、天文22年、志方城主・櫛橋伊定の次女として生まれ15歳の時、おじにあたる小寺政織の養女となり、22歳の黒田官兵衛の正室として姫路城にはいりました。光姫さまの父伊定は、早くから官兵衛の才能を高く評価しており、結婚の1年前に赤格子兜と胴丸具足を贈っています。嫁いだ翌年には嫡男・松寿丸が誕生(後の福岡藩主・黒田長政)。14年後、天正10年次男、熊之助が山崎で誕生しました。
天正6年10月、官兵衛が有岡城に幽閉され、毛利方に寝返ったと考えた信長は、『人質の松寿丸を殺せ』と秀吉に命じました。この知らせを聞いた光姫さまは、夫と子供の安否に心痛の時を阿弥陀さまに手を合わせ過ごしていました。「官兵衛は裏切らない」と確信する盟友、竹中半兵衛により松寿丸はかくまわれていました。やがて有岡城が落城し、1年ぶりに官兵衛が救出されました。疑念の晴れた官兵衛と松寿丸は、姫路に帰ることが出来ました。光姫さまと官兵衛は、この半兵衛の計らいに後々まで感謝したといいます。
慶長2年、光姫さまを悲しみの底に突き落としたのは、次男・熊之助の死の知らせです。熊之助16歳。中津城で留守居を務めていましたが、官兵衛と長政を追って朝鮮に渡ろうとして悲運にも玄界灘で暴風雨に遭い、帰らぬ人となりました。その時、秀吉の質(しち)として大阪天満屋敷にいた光姫の嘆きはいかばかりだったでしょう。もし、生きていれば、兄・長政の片腕となり藩政に尽くしていたに違いない。光姫さまのおおきな力にもなっていたことでしょう。
慶長5年、関ヶ原の戦いの直前、光姫さまの身に危機が襲ってきました。石田三成から大阪に残っている大名の妻子を人質として大阪城に移すように命じられたのです。細川忠興の妻・ガラシャが人質になることを拒み自屋敷に火を放った際、石田勢の監視が緩くなりました。その隙を狙った黒田家の家臣たちによって光姫は、長政正室栄姫と共に大阪天満屋敷から薦に包まれ米俵に似せて担ぎ出され、脱出に成功したのです。
九州・中津へ無事に着いた時、官兵衛は、ことのほか喜び領内の住民を城内に招き入れ、中津北原人形芝居を催しました。光姫さまと栄姫は、この人形芝居で心が慰められました。
官兵衛と長政はキリシタンでしたが、光姫さまは、熱心な浄土宗信者でした。慶長7年出家して、長男長政の治める福岡城と次男熊之助が眠る玄界灘の見える場所に圓應寺を建立しました。黒田家からは『才徳兼備』と称えられました。
光姫さまは、夫・官兵衛がお亡くなりになり、出家して照福院殿となり、先祖、敵味方の区別なく御霊の追善供養に益々励まれ、一族、福岡藩有縁無縁の繁栄を祈願していたようです。のち息子・長政を見送り、寛永4年8月26日、75歳の長寿を全うされました。戦国時代の荒波に翻弄された一生でしたが、官兵衛に生涯一人の妻として愛され続けた人生は現代の女性、誰もが羨むような生涯であり陰に陽にして官兵衛を支え尽くした光姫さまの法名は照福院殿然誉栄大尼公。圓應寺は福岡を見守り照らすという夫人の思いを忘れることのないよう「照福山」を追号して「照福山顕光院圓應寺」と称しました。
圓應寺では毎年、ご命日に光姫さまを偲び『光姫忌』が行われています。 照福院殿墓碑は昭和55年に再建立されました。歴代上人の口伝によると、戦前の墓石内には荼毘と毛髪が納められていたといわれます。
平成25年8月、略伝書より「光姫」の読みが「ミツ」と見つかりました。
非常に重大なことが判明し、興奮いたしております。福岡大空襲を防空壕でくぐり抜けた圓應寺の略伝、添え書きを一緒に見ていただいていた時のことです。 照福院殿の記述を読み直していたとき、「光姫」……。「田坂先生!ルビが!!」私の言葉に「ルビが打ってある古文書は少ないし、それが官兵衛の奥方の菩提寺であるお寺さんの略伝、 添え書きであるのは信憑性が高い」と落ち着いておっしゃられました。「光姫」の読み方が今後変わるかもしれません。更に、開山の略伝に「剃」という字が……。