頭山満は国士無双といわれ、昭和の巨人とよばれた国家主義の第一人者。玄洋社の総帥として多くの思想の柱となりました。アジア各地の独立運動を支えたことでも知られています。
1855年4月12日筑前国早良郡西新町の福岡藩士筒井亀策の三男として生まれました。小さい頃から優れた記憶力で、物事を語ることが鋭敏だったと言われており、11歳の時、
楠木正成のような人物になりたいとの思いで植えた楠が、現在でも生家跡(現・西新エルモールプラリバ)北側の西新緑地で見られます。
玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされています。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となってからは、
大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在としても知られました。鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅などといった政界にも広い人脈を持ちながら、実業家や篤志家としての側面も持ちあわせていました。
昭和19年、静岡県御殿場の富士山を望む山荘で89年に渡る生涯を静かに閉じましたが、その際には頭山家として葬儀を執り行うため福岡入りした一行が、博多駅から圓應寺までの距離を提灯行列で
見送ったという前代未聞の出来事がありました。これらの口伝からも、人望厚い人柄をうかがい知ることができます。現在も頭山満の墓石の傍らには、少年期に楠木正成を目指した時と同じように楠が植えられています。
また、圓應寺には頭山家縁の品々が残されており、大前机の寄進(戦火で焼失)や自身の高取焼き座像、峰尾夫人との夫婦共作による書「夫婦相和」などがあります。ことに、峰尾夫人との共作書は、
琴瑟相和する姿を伝えており、貧しい時代を共にした夫婦の強い信頼と美しい結びつきを感じさせます。 (瑟とは中国伝来の大型の琴で、二人で奏でる大小の琴が美しい音曲を作り出す例えから、
夫婦円満を表す言葉とされています。)