本文へスキップ

浄土宗 照福山 顕光院 圓應寺 - 福岡 (円応寺・えんのうじ)

TEL. 092-761-1454

〒810-0074 福岡県福岡市中央区大手門3-1-7

二十四騎についてHISTORY

トップ圓應寺について 歴史-圓應寺縁起二十四騎について
二十四騎について

黒田官兵衛(如水)を語るに、黒田二十四騎の存在は欠かせません。
黒田二十四騎とは、文禄元年(1592年)の侍大将(備頭)にて構成されており、特に功績を残した重臣達の総称です。
圓應寺には、勇猛果敢を謳われた黒田二十四騎ほか家臣が祀られています。


野口佐助一成

上月合戦の高倉山城の大手口で、一番槍の功名をあげました。三木城でも騎馬武者を槍で倒すなど槍の名手であるとともに、謙信流の使い手であったとも伝えられています。福岡城建築の際には石垣奉行を命じられました。驚いたことに、この時代の石垣にして現在の耐震構造に通じる作りであることで近年注目を集めたという意味では、先見の明があったと言えます。父親の浄金(蓮刹院殿言譽浄金居士)は僧職であり、黒田官兵衛とは囲碁仲間だったと伝えられています。圓應寺には父浄金とともに眠っています。この浄金は圓應寺が開基して最初の靈位となります。


桐山孫兵衛信行

文禄の役中、長政の使者として肥前名護屋城を訪ね、豊臣秀吉から兜を拝領しました。桐山孫兵衛信行の墓所には毎年命日である1月23日には黒田公の代参があったと記録されています。


久野四兵衛重勝

武士でありながら土地区画整理の名人といわれ、戦乱で荒廃した博多の復興に奔走し、わずか二十日間で町割りの基礎を作るなどの功績を残しました。今もこの地にて眠り博多の街を見守っています。


小河伝右衛門信章

白川城において百挺の鉄砲を駆使して明軍の南下を阻止したという功績の持ち主と伝えられています。


母里太兵衛友信

黒田官兵衛とは又従兄弟の関係。豪快で槍術に優れた剛力の勇将で「黒田節」に謡われる名槍「日本号」を福島正則から呑み獲った逸話でも広く知られています。圓應寺にて供養したことが過去帳に残っています。


黒田三左衛門一成

黒田官兵衛が荒木村重に捉えられていた際、牢番だった加藤重徳の次男でありましたが、官兵衛に対し温情を図ったことに感謝し、重徳の次男を我が子同然に育てたいと官兵衛が引き取り、 長政の実弟のように育てられました。以後、長政に献身的に補佐し戦い続けました。後の黒田騒動では藩側に立ち幕府の裁判で栗山大膳を退けました。圓應寺にて供養したことが過去帳に残っています。


井上九郎右衛門之房

官兵衛が荒木村重に囚われの身になったとき敵地に忍び込み、官兵衛の牢の周りを徘徊し其の安否を心配した。慶長5年官兵衛と豊後大友氏の石垣原の合戦において吉弘統幸との一騎打で槍を合わせ打ち勝ち、 その名を天下に知らしめたと伝えられています。圓應寺にて供養したことが過去帳に残っています。



バナースペース