福岡市内には、黒田家菩提寺として圓應寺の他に崇福寺があります。
その経緯として考えられるのは、当時筑前国主となった黒田長政が、帰依していた京都臨済宗大徳寺住職・春屋良杷禅師から、天正15年(1587年)の焼失以来、
廃寺状態にあった大宰府の臨済宗横岳山・祟福寺の再興を請われました。
長政は春屋良杷禅師の請いに応え、1600年に大宰府崇福寺を箱崎松原に移転・再興したうえで春屋和尚を中興開山とするため呼び寄せ、崇福寺を黒田家の菩提寺としました。
長政が春屋和尚に帰依したのは、同郷播磨国出身であったからと伝えられています。
黒田官兵衛(如水)・長政父子は、戦国乱世のなかでも黒田家が苦難の時代を過ごしたふるさと播磨を片時も忘れず、また福岡という現在の地名も、郷里の地名(備前邑久郡福岡)
から名付けられたとも言われております。黒田親子は播磨国出身、同郷の人物には格別の情をもって厚遇したとの事例が数多く残されています。 また、その2年後となる1602年には黒田官兵衛(如水)の正室光姫により当寺が開基されました。光姫がこの大手門という場所を選んだ理由には、息子長政の治める福岡城を
よく見渡せたこと、官兵衛の屋敷まで200メートルであったこと、そして朝鮮出兵の際18歳の若さで他界した次男熊之助が亡くなった玄界灘の見える場所であったことなどが挙げられます。
また、開山上人として招かれたのは見道大和尚で、黒田官兵衛の実父黒田職隆の葬儀の際に導師を務めた人物です。見道大和尚は、武門赤松氏の流れをくむ名家の出身であり、
その昔軍師・官兵衛の参謀の一人だったとも伝えられています。見道大和尚を招いたことより大切な家族と浄土宗を「信じる心」の強さの顕れがうかがえます。
これらの経緯から、光姫は黒田家の菩提寺として福岡の地に圓應寺を開山されました。これが福岡に菩提寺をふたつにした所以ではないかと考えられています。